約 11,558 件
https://w.atwiki.jp/orochi2/pages/47.html
赤壁の戦い(曹操軍) 勝利条件 孫権の撃破 敗北条件 曹操(徐庶)の敗走 制限時間 90 00 00 戦功目標 目標 内容 武勲 解説・備考 1 5分以内に赤壁西射撃台を制圧 300 2 10分以内に赤壁北砦、赤壁東砦を制圧 300 3 プレイヤーが体力70%以上を維持 500 フィールドアイテム 名称 場所 貴重品入手 武器を落とす武将 諸葛亮、馬忠 加入武将 解説 「怪しい船を発見・・・」と伝令からの報告直後にイベント発生の為 (黄蓋は戦闘開始時には登場しておらず、イベント発生後に出現) 火計を防ぐ事は不可能なので、被害を最小限に留めましょう。 そのためには、祈祷の阻止と連環の計を解除する必要があります。 まずは #40848;統と共に進軍し、赤壁北砦を制圧して南下します。 赤壁東砦へ行く途中で、 #40848;統は一人赤壁北砦の南東へと移動します。 近くには周瑜をはじめとして敵将が複数いるので、 離反のメッセージが流れる間に倒してしまえば、 #40848;統の撃破に専念できます。 #40848;統を撃破したら、祭壇に移動して諸葛亮を撃破しましょう。 火計が発動した際、連環の計で自軍船に被害が拡大している場合、 孫権が連合軍本陣から赤壁南砦を経由して北上し、自軍本陣めがけて突撃します 自軍船に乗り込まれると、火計のダメージによりプレイヤーの体力が減る為 目標3の達成が困難になるので、その前に撃破しましょう。 赤壁の戦い(連合軍) 勝利条件 曹操の撃破 敗北条件 孫権(諸葛謹)の敗走 プレイヤーが周瑜の時は孫策の敗走 制限時間 90 00 00 戦功目標 目標 内容 武勲 解説・備考 1 黄蓋が火計に成功 300 成功するとクリア後に黄蓋が加入 2 10分以内に西楼船、中央楼船を制圧 300 3 自軍が1軍団も敗走しない 500 フィールドアイテム 名称 場所 貴重品入手 武器を落とす武将 李典、曹操 加入武将 解説 諸葛亮が祭壇につくと祈祷を行いますが敵武将が2回出現して祈祷が中止されます。 祭壇の敵武将を倒して祈祷を再開させましょう。 火計が成功するだけでも敵士気は下がりますが、祈祷が成功して東南の風も吹くと更に効果が上がります。 曹操に近づくとすると曹操は敵本陣を捨てて連合軍本陣に向かうので追いかけて倒しましょう。 赤壁の戦い(呂布軍) 勝利条件 敵軍団の全滅 敗北条件 呂布の敗走 制限時間 90 00 00 戦功目標 目標 内容 武勲 解説・備考 1 10分以内にプレイヤーが曹操、孫権を撃破 300 クリア後に孫権が加入 2 プレイヤーが諸葛亮を撃破 300 3 自軍を1軍団も敗走させない 300 フィールドアイテム 名称 場所 貴重品入手 武器を落とす武将 程普 加入武将 孫権:10分以内にプレイヤーが曹操、孫権を撃破 解説 孫権を撃破すると周瑜が激昂してパワーアップするので、できれば周瑜を先に倒そう。
https://w.atwiki.jp/regnumtria/pages/517.html
濡須口の戦い ホウ徳 剣兵/rank3 LV35 楽進 剣兵/rank3 LV35 夏侯惇 剣兵/rank5 LV35 [発生武将] 凌統 「戦で命を落とすなど何の益もない、皆気をつけろよ」 董襲 [序章] 馬超ら涼州の軍勢を破った曹操軍は次に孫権討伐を開始した。対する呉軍は濡須口を要害とし、曹操軍を迎え撃つ。呉軍と魏軍の長きにわたる戦いの一つが始まったのである。 [終章] 魏軍の攻撃は凄まじく凌統率いる軍は窮地に立たされてしまう。しかし、間一髪のところで、同じ呉軍に居ながらも親の敵であった甘寧に命を救われる。呂蒙の策により築いていた土塁により、曹操軍の足を留めることに成功。そして一カ月に及ぶ対峙の末、曹操軍は撤退することとなる。
https://w.atwiki.jp/mitumata/pages/19.html
か 名前 読み 蒯越 かいえつ かいえつ 字は異度。荊州南郡中廬侯国の人。楚漢戦争期の説客・蒯通の子孫。蒯良は同郷同姓の人物で一族の可能性は高いが、関係は不明である。 最初は何進に東曹掾として仕え、宦官殺害を進言するものの何進は決断できなかった。その後、蒯越は自ら望んで汝陽の令として荊州に赴き、劉表配下の大将となった。初平年間に、蒯越は謀略と弁舌を駆使して、荊州で劉表に対立していた地方官や豪族を次々と滅ぼし、あるいは降伏させ、劉表の荊州統一に大きく貢献している。後に、献帝の詔勅により、蒯越は章陵太守に任命され、樊亭侯に封じられた。 建安13年(208年)、劉表が死去して劉琮が後継すると、曹操が荊州進攻を図る。蒯越は、同僚の韓嵩や傅巽と共に曹操への降伏を劉琮に進言し、劉琮もこれを受け入れた。曹操は蒯越を列侯に封じ、光禄勲に任命した。曹操は荀彧への手紙の中で、「荊州を手に入れたことは嬉しくないが、蒯異度を手に入れたことは嬉しい」と書いている。 建安19年(214年)に死去。 蒯良 かいりょう かいりょう 字は子柔。荊州南郡中盧侯国の人。同郷同姓の蒯越とは一族の可能性が高いが、関係は不明である。 劉表が荊州刺史として赴任した際、蒯越・蔡瑁と共に招かれ、服従しない豪族への対処法について相談される。これに蒯良は「仁愛と信義をもって人民を労わるように」と進言し、蒯越は「利で誘った上で無道の者を誅し、残りは安撫すべき」と進言した。劉表は蒯良の進言を「(仁義を尊んだ晋の)雍季の議論と同じである」としたが、蒯越の進言の方をとり、荊州を統一した。 『世説新語』の注に引く『晋陽秋』によると、その後(恐らく曹操に仕え)吏部尚書にまでなった。 賈逵 かき かき 本名は衢、字は梁道。河東郡襄陵(山西省臨汾市襄汾県)の人。 司徒曹操の招きを受け、司空の掾(属官)となり、議郎となって司隷の軍事を担った。馬超征伐のとき、賈逵は曹操により弘農太守の代理に任命され、曹操と対面した。曹操は賈逵を気に入り、太守が皆賈逵のようであれば心配ごとはない、とまで言った。 曹丕が魏王になると、賈逵は鄴の令となり、やがて魏郡の太守に昇進した。曹丕が遠征した際は丞相主簿祭酒に任命され随行し、厳しく軍律を履行し、譙についたときに豫州刺史に任命された。賈逵は豫州の治政が緩んでいたのを見て、官吏の綱紀粛正につとめ、他の州治の手本となるほどの治績を挙げた。関内侯に封じられた。 豫州は呉と国境を接していたため、軍備の整備と防備の充実に励んだ。中でも特筆すべきは二百里にも及ぶ大運河を築き上げたことであり、この大運河は『賈侯渠』と呼ばれている。 その後、病気にかかって危篤に陥り急死した。粛侯と諡された。 華歆 かきん かきん 字は子魚。諡は敬。平原郡高唐県の人。当初孫策と孫権に仕え、後に魏の重臣となった。『三国志』魏志に伝がある。 華歆の政治は簡潔で公正であったので、官民はこれを幸いとし、彼に敬意を表した。『魏略』によると、孫策に追われ近隣に駐屯していた揚州刺史の劉繇が没すると、その家臣達は華歆を頼ろうとしたが、華歆は勝手に任命されることは良くないとしてこれを拒絶したという。 孫策が豫章に攻め込むと、華歆は孫策が用兵に巧であることを知って隠士のかぶる頭巾をかぶって降伏し、孫策も華歆の声望を知っていたため彼を上客として礼遇した(具体的な経緯については『呉歴』、『譜叙』、『江表伝』)。孫策が死ぬと、孫権に仕えたが、間もなく官渡にいた曹操から呼び出された。孫権は引きとめたが、華歆は孫権と曹操との国交がようやく出来たばかりだから孫権のために働かさせてくれるよう頼み込んだため、孫権は喜んで中央へ赴かさせた。出発のときは数千人の賓客達に見送られ、餞別も多額に上ったが、華歆は餞別にしるしを付けておき、いよいよ出発するときになって、賓客達にすべて送り返した。賓客達は華歆の徳義に感嘆した。 曹操が孫権を征伐するときには華歆が軍師に求められた。建安21年(216年)に曹操が魏王となると御史大夫に、曹丕(文帝)が王位を継ぐと相国に任命され、曹丕が皇帝として即位すると司徒に叙せられた。 華歆は魏の諸臣の中でも際だって厚く遇されていたが、自身は清貧に甘んじ、俸禄や恩賞は九族に分け与えていたため、家には僅かの貯えもなかった。あるとき、公卿の全員に官婢が下賜されたことがあったが、華歆は彼女らの身分を解放して、他家に嫁がせてやった。文帝はこれを賞した。 太和5年(231年)に病死し敬侯と諡された。『魏書』によると75歳であったという 賈詡 かく かく 字は文和。武威郡姑臧県の人。董卓、李傕、段煨、張繍に仕えた後、曹操の配下となり、曹魏2代にわたり重臣として活躍した。 董卓の校尉となり、董卓が呂布、王允らに殺されると、李傕らに策を授けて長安を攻めさせて呂布を追い出し、王允を殺して長安を奪回させた。献帝が長安から出ると李傕に印綬を返上し、同郡の段煨が駐屯している華陰に赴いた。しかし段煨は内心で賈詡に実権を奪われることを恐れており、これを察した賈詡は、南陽にいる張繍の招きに応じ、彼に仕えることにした。 197年(建安2年)、張繍は曹操に攻め込まれて降伏した。この際、曹操は張繍の義理の族母(おば)を妾にし、更に張繍を暗殺しようとした。これを察知した張繍は反乱を決意した。張繍は賈詡の計略に従い、完全武装の張繍軍が曹操軍の陣営を通過する許可を曹操にもらい、曹操軍を奇襲して大いに打ち破り、曹操の長子曹昂と曹操直下の猛将典韋を戦死させた。 199年(建安4年)、曹操と袁紹が官渡で対峙すると、袁紹は張繍に使者をよこして味方に引き入れようとした。張繍がこれに応じようとすると、賈詡は袁紹からの使者を追い返し、張繍に曹操に降るよう進言した。張繍が「袁紹の方が曹操より強大だし、その上曹操とは仇敵の間柄ではないか」と渋ると、賈詡は曹操が天子を擁していること、弱小である曹操だからこそ、味方になる勢力を必ず厚遇してくれること、天下を狙う曹操ならば個人的な怨恨を水に流すことで、自分の徳を内外に知らしめようとするに違いないこと、を理由に挙げた。張繍が賈詡の意見に従い曹操に降伏すると、曹操は彼らを礼遇した。賈詡は曹操の上奏により執金吾に、次いで冀州牧・参司空軍事に任じられ、以後は曹操の参謀として働いた。 曹操の後継者を選ぶにあたって、家臣の間では嫡子である曹丕派と、文才優れた曹植派とに分かれ、盛んに議論が起きていた。曹操から諮問を受けた賈詡は即答せず、ただ「袁紹と劉表のことを考えておりました」とだけ答え、袁・劉両家が強大な勢力を誇りながらも、長子以外を後継者にしたことで国を分裂・混乱させ、その結果、外敵(曹操)に滅ぼされたことを暗に示唆した。賈詡の助言を聞いた曹操は大笑いし、かくして嫡子の曹丕を太子とした。 220年(建安25年)、曹丕が曹操の後を継いで魏王となると、賈詡は三公の一つである太尉に任命された。曹丕が献帝から禅譲を受けて皇帝に即位した後も、筆頭の重臣として厚遇された。 223年(黄初4年)、77歳で病死した。 郭嘉 かくか かくか 字は奉孝。郭奕の父、頴川の人。 郭嘉は世に出るに当たって、まず袁紹のもとを訪れたが、仕官せずに去っていった。その後、郭嘉と同じく頴川の出身だった荀彧が戯志才の後継者として曹操に郭嘉を推挙した。曹操のもとに召しだされた郭嘉は天下のことを議論した。曹操は「わしの大業を成就させてくれるのは、この男をおいて他にいない」と高く評価し、一方郭嘉も退出するなり「真に我が主君だ」と言って喜んだ。そして曹操に軍師(役職は軍祭酒)として仕え、数々の助言を行った。 38歳の時、柳城から帰還の後、病を得てそのまま死去した。貞侯と謚された。曹操は郭嘉の死を大変悲しみ、荀攸らに向かって「諸君はみな、わしと同年代だ。郭嘉ひとりがとび抜けて若かった。天下泰平の暁には、後事を彼に託すつもりだったが。郭嘉はわしと軍略を論じるときは、南方は疫病が多いためきっと自分は生きて帰れないだろうと言いながらも、天下を得るためには先に荊州を得るのが妥当と主張しておった。彼の計略は真心から出たものではなく、命を棄ててまで功業を打ち立てようという考えからなのだ。それほどの心で仕えていたのに、どうして彼のことを忘れることができようか」と嘆いた。『傅子』によれば、その死に際し曹操は「哀哉奉孝、痛哉奉孝、惜哉奉孝(哀しいかな奉孝、痛ましいかな奉孝、惜しいかな奉孝)」とも言った。 郭汜 かくし かくし 郭阿多との記述もあり、幼名か字が阿多である。郭多とも郭氾とも言われることもある。董卓の娘婿に当たる中郎将牛輔の部曲として史書に登場する。董卓が洛陽を放棄すると東方諸侯に備える一角を担い、李傕らと共に中牟で朱儁を破った。 192年、董卓が王允らによって暗殺された際、李傕・郭汜らは東方にあったが、賈詡の進言を容れて董卓の報復に乗り出し、諸軍を集めて長安を奪回した。 裴松之が三国志の注に引く『英雄記』によると、この攻防戦の際に呂布に一騎討ちを挑まれて応じ、敗れたとされる。 献帝を擁して王允を殺すと後将軍の地位に昇り、李傕、樊稠らと朝廷を支配した。この専横の間、兵を放って城邑を略奪させたため、三輔の民衆は飢餓に陥り「二年の間にことごとく食らいあった。」 194年、馬騰が李傕に私的な交際を求めたが断られたため、韓遂らと結託し長安を攻撃。郭汜は樊稠と共に出撃し、馬騰軍一万あまりを斬った。さらに、馬騰に協力していた羌族も撃破している。 同僚で幼馴染の李傕とは酒宴を開いたり、お互いの陣営に宿泊する仲であった。しかし、李傕が郭汜に妾を与えているのではないかと疑った妻に謀られ対立、抗争を繰り広げるようになる。この二人が争っているのを見て、張済は二人の争いを仲裁し、献帝を洛陽に送ることとなった。だが、郭汜は献帝の護衛中に変心して官軍に対して攻撃を仕掛ける。李傕、張済を巻き込んで官軍を壊滅状態に追い込んだが、献帝を捕らえる事は出来なかった。 その後、錦の御旗を失った郭汜は衰退し、197年、曹操が派遣した謁射僕射の裴茂に長安を追われ、部下の伍習に裏切られて郿で殺された。その首は曹操のもとへ送られた。 郭図 かくと かくと 字は公則。豫州潁川郡の人。 建安4年(199年)、沮授と田豊が、曹操と対抗する上で持久戦略の採用を主張したのに対し、郭図は審配と共に短期決戦戦略の採用を主張する。袁紹は郭図・審配を支持した。さらに郭図は、監軍(袁紹軍総司令官の地位に当たる)の地位に在った沮授について、その勢威が強大すぎると袁紹に讒言した。これにより、監軍の地位・権限は三都督へと三分割され、沮授・淳于瓊・郭図の3人が都督に任命された。 建安5年(200年)10月、袁紹は淳于瓊に命じて、烏巣で兵糧を守備させたが、曹操はこれを攻撃しようと図る。この時、郭図は、この隙に曹操軍の本陣を急襲することを主張した。一方、袁紹の部将張郃は、本陣は堅固であるだろうから、全力で直ちに烏巣へ救援に向かうべきであると反論した。結局袁紹は、軽騎兵を烏巣に向かわせ、重装備の兵で本陣を攻撃するという中途半端な選択をした。曹操は淳于瓊らを打ち破り、袁紹軍は崩壊した。このとき郭図は、責任追及を恐れて張郃のことを讒言し、張郃は曹操への降伏をやむなくされた。 建安7年(202年)に袁紹が死去すると、郭図は辛評と共に長男の袁譚を後継者に推戴した。これに対して郭図・辛評と不仲の審配・逢紀が三男の袁尚を推戴し、これが袁氏の内紛につながってしまう。建安8年(203年)、郭図と辛評は、袁譚に助言・後押しをして、袁尚に先制攻撃を仕掛けさせた。しかし袁尚の反撃に敗北して平原に追い込まれ苦境に陥った。 次の手として郭図は、曹操への一時降伏を袁譚に薦め、受け入れられる。袁譚は辛毗を派遣して、曹操と同盟を結んだ。そして曹操は袁尚を攻撃し、鄴を攻め落とし、審配を処刑した。 曹操と袁尚が戦っている隙に、袁譚と郭図は一度は勢力を盛り返す。しかし、それが原因で曹操は袁譚を盟約違反と非難し、両軍は再び交戦した。建安10年(205年)春、袁譚と郭図は南皮に追い込まれて最終的に敗北し、郭図は袁譚と共に殺された。『後漢書』袁紹伝によると、この時捕まった郭図の妻子も一緒に処刑されたという。 夏侯玄 かこうげん かこうげん 字は太初。夏侯尚の子。 20歳の若さで散騎侍郎・黄門侍郎に任じられる。曹叡(明帝)に目通りした際、毛皇后の弟である毛曾と同席させられたことに対して嫌悪感を露わにしたため、明帝の不興を買って羽林監に左遷された。 正始年間初期、幼帝曹芳(斉王)の治世下で曹爽が政治の実権を握ると、曹爽の縁戚である夏侯玄も出世し、散騎常侍・中護軍に昇進した。 249年、司馬懿のクーデター(正始政変)により曹爽が処刑されると、夏侯玄も中央に召し返されて大鴻臚となり、数年後には太常に転任した。このとき、夏侯覇に、ともに蜀に亡命するよう誘われたが、断ったともいう(『魏氏春秋』)。 中書令の李豊は、大将軍の司馬師に信任されていたにも関わらず、夏侯玄に心を寄せ、司馬師を誅殺して夏侯玄を大将軍とし、政権を握らせようと考え、曹芳の皇后の父の光禄大夫張緝らと計画をめぐらした。しかし、計画は事前に露見し、司馬師に機先を制されて、夏侯玄らは捕らえられ、廷尉の鍾毓の元に送られた。鍾毓の取調べのときにも夏侯玄は堂々としており、鍾毓が作成した供述書を涙を流しながら見せると、夏侯玄は黙って頷いたという(『世語』)。結局、夏侯玄は李豊らとともに大逆の罪に問われ、刑法により三族皆殺しとなった。46歳であった。斬刑の場に臨んでも、夏侯玄は顔色一つ変えず、堂々とした様子だったという。 夏侯玄は学者としても秀でており、「楽毅論」、「張良論」、「本無肉刑論」を著した。その文章は筋が通っており、世間に広く伝わったという。 華陀 かだ かだ 本籍は沛国譙県(現在の河南省永城市)で、ペルシア系。字は元化(元方)。「華陀」とも書く。「華佗」とは「先生」を意味する尊称 xwaday が人名として用いられたもの。本名は不明。 徐州で学問し、経書を学んだ。陳珪により孝廉に推挙されたが、出仕しなかった。養性の術に通暁しており、当時の人々は彼の年がもう百歳になるはずだとしたが、見たところは若々しかった。また、華佗は医術や薬の処方に詳しく、麻酔を最初に発明したのは華佗とされており、麻沸散と呼ばれる麻酔薬を使って腹部切開手術を行ったという。そのため、民衆から「神医」と呼ばれた。また、屠蘇や「五禽戯」と呼ばれる体操健康法の発明者とも言われている。 その評判を聴いた曹操の典医となり、持病であった頭痛の治療に当たっていた。しかし、華佗は自分が士大夫として待遇されず、医者としてしか見られないことを残念に思っていた。これは当時の医者の社会的地位が低かったためである。そこで、帰郷の念が募って、医書を取りにゆくといって故郷に戻って、二度と曹操の下に戻って来ようとはしなかった。そのため、曹操はこれに怒って華佗を投獄し、荀彧の命乞いも聴かず、拷問の末に殺してしまった。曹操は名医で頭痛を治せる唯一の人物であった華佗を殺してしまったこと、またそのことにより庶子ながら、その才気煥発な面を愛していた曹沖を治療することができず、夭折させてしまったことを、後々まで後悔したと言われている。 韓浩 かんこう かんこう 字は元嗣。養子は韓栄。司隷河内郡の人。 後漢末の乱の中で人を集めて盗賊から自衛し、河内郡の太守であった王匡の従事となった。董卓が舅の杜陽を人質にして、韓浩を招いたが彼は応じなかった。これを聞いて袁術が彼を騎都尉とした。その後、同じく韓浩のことを伝え聞いた夏侯惇に見出され、曹操に従い兵を率いるようになった。 武勇に優れ、呂布との戦いなどで活躍した。夏侯惇が人質となった際には、主のいない軍をまとめ、かつ人質を取った者に対し人質を気にせず厳しい態度で臨んで事態を収拾し、結果として夏侯惇も助かっている。政治的にも優れ、曹操に対して屯田を行なうように提言している。護軍(後に中護軍)となって曹操軍の中核を担っている。智勇に優れ、多くの功績を挙げた韓浩は曹操から大いに信任された。 建安20年(215年)、漢中の張魯討伐に従軍し、張魯を破った後、漢中を統括する司令官として韓浩を推す声が強かったが、曹操は「護軍無しにはできない」と難色を示し、夏侯淵が守将となった。 その功で近衛隊の指揮者となり、列侯に封じられた。のち病死した。韓浩が死んだとき、曹操はその死を惜しんだ。彼には子がなかったので、一族の韓栄が養子として後を継いだ。 簡雍 かんよう かんよう 元の本姓は“耿”だったが、幽州では“簡”と発音されていたので、改姓した[1]。 同郷出身の劉備とは若い頃からの旧知の仲であった。早い時期から常に劉備に随伴してともに各地を転々とした。劉備が荊州に入ると孫乾、糜竺とともに従事中郎となり、話し相手になったり使者を務めたりした。 劉備が益州に入ると、劉璋にその人柄を愛された。後に、劉備と劉璋が対立すると、成都で抵抗する劉璋への降伏勧告の使者となった。劉璋は説得に応じ、簡雍と同じ輿に乗って城を出て、劉備に臣従した。 益州に入った劉備から昭徳将軍に任命され、糜竺の次で孫乾と並ぶ待遇を受けたという。 簡雍は傲慢で無頓着な性格で、劉備が出席する席でもだらしない振る舞いを止めず、諸葛亮達に対しても遠慮をせず、自分だけ長椅子を占領した上で寝そべったまま談笑をしたりした。一方で、機智に富んだ性格でもあり、劉備が厳しすぎる禁酒令を出した時は、ユーモアを交えてこれを諌め、劉備を笑わせるとともに、禁令を止めさせている。 簡雍の没した時期は不明だが、219年に劉備を漢中王に推挙した群臣達の中にも、220年に劉備を皇帝に擁立した群臣達の中にも簡雍の名は見えない。 劉備が禁酒令を出した際、酒造の器具を所有しているとして告発された者がいた。簡雍が劉備と共に成都の市街を歩いていた時のことである。簡雍は若い男女を見て、劉備に向かって「これは淫行に及ぶから取り締るように…」と言った。劉備が「何故か?」と訳を尋ねると簡雍は「あの2人は淫行の道具を持っておるから」と答えた。劉備は笑い出し、酒造器具の所有者を赦す事にしたという。 闞沢 かんたく かんたく 字は徳潤。会稽郡山陰県の人。『三国志』呉志に伝がある。 農民の出身で貧乏であったが、勉学に励み、学資稼ぎのため書籍の書写仕事を請け負い、一冊の本を書き写したときにはその内容のすべてを暗誦するほどであった。こうして学識を深め、師事する人物を求めて議論を多くし、多くの書籍に目を通した。郷里でも博識の人物と高く評価された。暦にも通じ、著書に『乾象暦注』がある。 孫権とは学問についてざっくばらんに語り合う仲であり、孫権に『過秦論』を読むようすすめたこともある。孫権は闞沢に子の孫和の勉強を見るよう依頼しており(「呉主五子伝」)、242年に孫和が太子になると、薛綜達と共にその教育係(太子太傅)となった。243年に死去。死後、孫権は数日間その死を惜しみ、食事が喉を通らなかった。 謙虚で実直なうえ、身分の低い者にも常に対等の礼をとり、他人の欠点をあしざまに指摘するようなこともせず、呉における人望は厚かった。容貌に威厳はなかったが、知識の広さは群を抜いていた。弁舌には巧みでなかったようで、蜀の使者である張奉が彼の姓名をからかった時、やり返せなかった(「薛綜伝」)。政治においては礼や律、和を重んじ、呂壱のような奸臣や不正を働いた役人にも厳罰で臨むことに反対した。 甘夫人 かんふじん かんふじん 劉備の側室。父母は不明。沛国の人。劉禅の母。 194年、劉備が予州刺史として小沛に移住したころ、妻とした。当時の正妻は糜夫人(糜竺・糜芳の妹)であり、甘夫人は身分の低さから側室のままであったが、最も長く連れ添っていたので、彼女が奥向きのことを取り仕切っていた。 207年、劉備に従って荊州に赴き、そこで劉禅を生んだ。208年、曹操の軍勢が南下して、劉備を追撃し当陽の長坂で追いつくと、劉備は甘夫人と幼い劉禅を置き去りにし、逃走した。そのとき武将の趙雲が劉禅を抱き、甘夫人を保護したため難を免れた。しかし甘夫人は間もなく亡くなり、南郡に埋葬された。 222年、甘夫人に皇思夫人と諡して、蜀に移葬することになった。しかし柩がまだ到着しないうちに劉備が崩御し、甘夫人の子である劉禅が即位したため、丞相の諸葛亮は、太常の頼恭らと諡号を検討して、甘夫人に昭烈皇后と諡し劉備と恵陵に合葬した。 なお厳密には、「昭烈」は甘夫人自身を示す諡ではない。皇后の追号と併せて「昭烈帝の皇后」という格式を表すものである。このため、自身に「穆」と諡された呉夫人は、『蜀書』において「穆皇后」と表記され、自身に諡のない甘夫人は「甘皇后」と表記されるのである。 管輅 かんろ かんろ 字は公明。平原の人。 管輅は占いによって先を見通す能力があったと言われ、そのことは『三国志』「方技伝」において記録されている。 管輅は幼少期から星を見るのが好きで、成人してからは易経などの勉学に励んだ。そのため、占師として不思議な能力が身についたと言われている。だが、素性の怪しい者と平気で付き合う一面があったため、彼を慕う人物は少なかった。ただし、彼はいつも素直な心で人に接したため、決して嫌われていたわけではなかったという。また、犯罪が起こると犯人を言い当てたため、やがて彼の回りから犯罪が絶えたという。さらに、射覆(器の中に物を入れて中身を当てさせる遊び)をするとほとんど間違いなく中身を言い当てた。 248年12月28日、曹爽の側近として羽振りをきかせていた何晏に招待された。何晏は三公に出世できるかと質問し、さらに「蠅が数十匹、鼻の頭にたかって、追っても逃げていかないという夢を見たが、何を意味しているのだろう」と問うた。管輅は「鼻はあなたの地位を表すものです。ところが、そこに蠅という醜悪なものが、寄ってまいりました。これは、険しい所に位置を占める者は転がり落ち、他人を侮り傲るものは滅びるという徴です」と警告した。 帰宅してから舅にこのことを話すと、舅は発言が明け透け過ぎると責めた。管輅は「死人と話をしているのに、何を恐れる必要がありましょうや」と言ったので、舅は怒り、気が狂ったのではないかと思った。ところが、年が明けて十日もしないうちに何晏たちが司馬懿に殺されたので、舅も敬服したという。『管輅別伝』によると、管輅は何晏について「彼はちっぽけな巧みさを才能にしていた」と評している。 正元2年(255年)、管辰は「大将軍(司馬昭)はあなたに厚意を持っていますから、富貴な身分が望めますね」と言った。しかし、管輅は自分の寿命が47歳か48歳のころに尽きるであろうと予言した。そして予言通り、翌256年2月、48歳のときに病死している(但し、管輅伝の本文中には「私の運勢は寅にあり、…」とも記述されており、その通りであるならば管輅は建安15年(210年)生まれであり、享年は47になると裴松之は注で述べている)。 姜維 きょうい きょうい 字は伯約(はくやく)。天水郡冀県の出身。 228年、蜀の諸葛亮が北伐を開始して接近した際、天水太守の馬遵とともにその偵察に赴いた。ところが各県の降伏を耳にした馬遵は、配下の姜維達も諸葛亮と内通しているのではないかと疑い、上邽に逃亡した。姜維らは彼を追ったが城内に入ることを許されなかった。冀県に戻ったがそこでも受け入れられず、取り残された姜維は行き場を失い蜀に降伏した。街亭の戦いで蜀軍が敗北すると、諸葛亮は西県の1000余家と姜維らを引き連れて帰還した。そのため姜維は以後、魏に残った母と生き別れとなった。諸葛亮は「姜維は仕事を忠実に勤め、思慮精密である。姜維は涼州で最高の人物だろう」「姜維は用兵に秀で、度胸があり、兵の気持ちを深く理解している」などと評するほど姜維の才を高く評価している。汶山での異民族の反乱を制圧すると、隴西(現在の甘粛省南東)に進出して郭淮、夏侯覇らと戦い、この地の異民族を味方に付けた。姜維は西方の風俗に通じていることや自らの才能と武勇をたのみ、大規模な北伐の軍を起こして諸葛亮の遺志を遂げたいと願っていた。だが大将軍である費禕(禕は示へんに韋)は賛同せず、姜維に一万以上の兵を与えることはなかった。 253年、費禕が魏の降将郭循に刺殺されると、姜維は費禕の後を受け軍権を握り、数万の兵を率いて北伐を敢行した。254年、魏の狄道県長李簡の寝返りに乗じて三県を制圧し、徐質を討ち取った。翌年には夏侯覇らとともに魏の雍州刺史王経を洮水の西で大破した。王経軍の死者は数万人に及んだ。この功績により翌256年に大将軍に昇進する。しかし同年、鎮西大将軍の胡済が約束を破り後詰に現れなかったため、段谷で魏将鄧艾に大敗し(段谷の戦い)、蜀の国力を大いに疲弊させた。姜維は諸葛亮の先例に倣って、自らを後将軍・行大将軍事へと降格することで敗戦の責任を取っている。257年、諸葛誕が反乱を起こしたのに乗じて魏を攻めたが勝つことができなかった。 姜維は長年軍事に力を注ぎ内政を顧みなかった。皇帝の劉禅は宦官の黄皓を重用して酒色に溺れ、蜀の国政は混乱した。また涼州出身の姜維は、蜀の朝廷内では孤立しがちであった。黄皓が閻宇と結託し姜維の追放を画策した際には、当時蜀漢の朝政を担っていた諸葛瞻や董厥までが黄皓の意見に同調したほどであった。姜維もまた黄皓を除くよう劉禅に嘆願したが聞き入られず、身の危険を感じた姜維は、これ以後成都に戻る事が出来なくなった。 262年、魏を攻めたが鄧艾に撃退された。263年、魏の司馬昭の命を受けた鄧艾と鍾会が蜀に侵攻してきた。姜維は剣閣で鍾会の軍に抵抗した。しかし姜維と鍾会が対峙している間、鄧艾が陰平から迂回して蜀に進入し、綿竹で諸葛瞻を討ち取った。この知らせを聞いた劉禅は成都を攻められる前に鄧艾に降伏した。劉禅降伏の報を受けた姜維は、残念に思いながら鍾会に降伏した。 降伏後の姜維は、鍾会が魏に反逆する意図を抱いていることを見抜き、鍾会に接近して魏に反逆するように提案した。その目的は、まず鍾会を魏から独立させ、機会を見て鍾会と魏の将兵を殺害し、劉禅を迎え入れて蜀を復興させようというものであった。鍾会は姜維の進言に従い、遠征に従軍した将軍たちを幽閉して反乱を準備した。だが将軍らが生命の危機を感じて暴動を起こしたため計画は失敗し、姜維は鍾会および妻子と共に殺された。享年63。 橋玄 きょうげん きょうげん 字は公祖。梁国睢陽県の人。 時の豫州刺史周景が梁国に至ったとき、橋玄は周景に面会すると地に伏して陳国相羊昌の罪悪を申し述べ、自分を陳国従事に任命して徹底的に取り調べさせてくれるように乞うた。 周景は橋玄の決意を壮として、従事に任じると陳国へ派遣した。橋玄は羊昌の賓客をことごとく収監し、臧罪(贈収賄罪)の罪状で取り調べた。大将軍梁冀は日ごろから羊昌と親交があり、檄を発して橋玄を召喚しようとしたが、橋玄は取調べをますます厳しくして、遂に羊昌を檻車で洛陽へ送った。この一件で橋玄は世に名を著した。 桓帝の末期、大将軍と三公府の推挙によって度遼将軍・仮黄鉞となった。任地に至ると、諸将を率いて高句麗の伯固らを討ち破って敗走させた。三年の在職の間に辺境は安静となった。 霊帝の時代になると呼び戻されて河南尹となり、その後は九卿・三公を歴任した。光和元年(178年)、太尉となって数か月で病のために免じられ、太中大夫を拝命して自宅で医者に掛かった。光和6年(183年)に死去。享年75歳。橋玄は剛直性急で大仰な礼儀を用いなかったが、下位の士人には恭謙で、宗族の中に橋玄の地位を利用して高位に昇った者はいなかった。橋玄が死ぬと家には生業が無くなり、喪中に殯も行われなかった。世論はこれを称賛した。 橋玄は、洛陽に召されて間もなく無名の曹操の訪問を受けてその様子に感嘆し、「私は天下の名士を多く見てきたが、君のような者はいなかった。君は善く自らを持せよ。私は老いた、願わくば妻子を託したいものだ」と語っている。このため曹操の名は知れ渡ることになった。建安7年(202年)、曹操が軍を率いて橋玄の墓の傍を通ったとき、人をやって太牢の儀礼でもって橋玄を祀り、自ら祭祀の文を奉げている。 橋瑁 きょうぼう きょうぼう 字は元偉。豫州梁国睢陽県の出身。文献によっては喬瑁と記されていることもある。『後漢書』、『三国志』にその名が散見される。 武帝紀の引く『英雄記』によると、太尉であった橋玄の一族とされるが、子の世代にあたる人物であるというのみで、続柄は明らかではない。兗州刺史を務めたことがあり、威厳と恩情を兼ね備えていたとされる。やがて東郡太守となる。 永漢元年(189年、大将軍何進は十常侍と対立すると、各地の軍を呼び寄せようとし、橋瑁にもその命令が下り、橋瑁は成皋の地に軍を駐屯させた(『後漢書』)。 何進と十常侍が共に滅び、董卓が朝廷の実権を握ると、橋瑁は三公の公文書を偽造し、董卓に対する挙兵を呼びかける檄文を作った(『後漢書』)。初平元年(190年)、董卓に反対する関東の諸侯が挙兵する(反董卓連合)と、橋瑁は孔伷や劉岱、張邈、張超、袁遺と共に参戦している。もっとも、臧洪伝によると、当初挙兵したのは橋瑁達である。 袁紹を盟主として仰いだが董卓が長安に遷都して以降は事態は進展がなく、橋瑁は酸棗に劉岱、張邈、袁遺、鮑信、曹操と共に駐屯していた。曹操は、酸棗に駐屯する諸侯が酒宴ばかり開いて董卓と積極的に戦おうとしないことを憂い、進軍計画を立てた上で、戦をするようすすめたが、諸侯はそれに応じなかった。 やがて酸棗の軍勢は兵糧が尽きて散逸し、橋瑁は劉岱と対立し殺害された。 許靖 きょせい きょせい 字は文休。汝南平陽の人。月旦評という人物評で有名な許劭(許子将)は従弟にあたる。蜀書に独立した伝がある。若くして従弟の許劭とともに人物評価について高い評判を得ていた。許劭とは仲が良くなかった。 董卓が朝廷を牛耳るようになると、董卓は吏部尚書周毖と共に許靖に人事を管轄させた。許靖は汚職をした者を追放する一方、、荀爽・韓融・陳紀・韓馥・孔伷・張邈・劉岱らを中央の要職や地方の長官に任命した。許靖自身も巴郡太守に任命されたが任地に赴かず、朝廷にとどまり、御史中丞となった。韓馥らが後に董卓に謀反を起こすと、その責を問われ周毖が董卓に処刑された。許靖は難を逃れるため朝廷を離れ、一族で陳国の相であった許湯を頼り、豫州刺史となっていた孔伷の下に身を寄せた。孔伷が死去すると、揚州刺史の陳禕(陳温)に身を寄せ、陳禕が死ぬと、旧交のあった呉郡都尉の許貢と会稽太守の王朗を頼り江東に渡った。 袁術の支援を受けた孫策が揚州を席捲し、会稽の王朗を攻撃すると許靖は交州に難を避け、このとき一族の多くが餓死した。交州を支配していた士燮には礼をもって遇され、同じく交州に逃れていた袁徽は荀彧に手紙を送り許靖の人物を賞賛したが、曹操が交州に派遣した使者の張翔は許靖を強引に招聘しようとし許靖に忌避され、腹いせに許靖の出した手紙をすべて捨てた。後に益州の劉璋に招聘されて巴郡・広漢郡の太守に任命された。211年、王商が死去すると許靖が後任の蜀郡太守に転任した。 214年、劉備が劉璋を攻め成都を包囲すると、許靖は劉璋を見捨て成都城を脱出しようとしたが発覚し捕らえられた。劉璋は許靖を咎めず、処刑しなかったものの、後に劉備が蜀(益州)を支配すると劉備は許靖を嫌い任用しようとしなかった。しかし、「許靖の高名は天下に聞こえ渡っており、許靖を任用しないのなら多くの人は公(劉備)が君子を軽んじていると思うことになります」と法正が劉備に説いたので、左将軍長史に任じられた。 劉備が漢中王になった際は、鎮軍将軍の職にあり、王への推挙の群臣の中に名を連ね、王に就任した後は劉備により太子の劉禅の補佐役(太傅)を任された。 220年に後漢が魏への禅譲により滅亡した。その後、献帝が殺害されたという誤報が蜀にもたらされると、221年、群臣と共に劉備に漢の皇帝として即位することを勧めた。劉備が皇帝になると司徒に任命された。 その頃70歳を過ぎていたが、人材を重んじ、脱世の議論を好んだといわれる。222年に没した。 魏の重臣となった華歆、王朗や陳紀の子である陳羣らとの親交は生涯を通して続き、手紙のやり取りをして旧交を温めたという。あるとき、王朗は劉備が没したことを知り、許靖に手紙を送って、劉禅、諸葛亮の魏への帰順を促そうとしたが、許靖は既に没していた(『魏略』)。 また、許靖は親類縁者や同郷の人を引き取って育て養育したという。 許攸 きょゆう 字は子遠。荊州南陽郡の人。 弱年の頃は袁紹や張邈と「奔走の友(心を許しあい危難に駆けつける仲間)」の交わりを結んだという。後漢の霊帝の時代、冀州刺史の王芬と手を組んで霊帝を廃して合肥侯を皇帝に擁しようと画策したが、失敗して逃亡し、袁紹の配下となった。建安4年(199年)頃には、田豊・荀諶と並び称される袁紹陣営の参謀となっている。しかし、上記のように朝廷に対して造反を画策したこと、性格的に金銭に強欲な所があったことなどから、進言が袁紹に容れられることはほとんどなかったと言われている。 建安5年(200年)、官渡の戦いのとき、袁紹に曹操側の本拠・許都と兵站路を襲撃し、曹操軍の死命を制する戦略を進言したが受け入れられなかった。また、ほぼ時を同じくして、許攸の家族が法を犯したとして審配に逮捕されてしまう。袁紹を見限り、曹操に寝返った。『三国志』魏書武帝紀には、許攸の強い物欲を袁紹が満足させることが出来なかったので、許攸は袁紹を裏切ったとある。そして、曹操に対して淳于瓊が守る袁紹軍の兵糧基地・烏巣の守備が手薄なことを教えて、奇襲をかけるように進言する。これが成功して烏巣は陥落した。 虞翻 ぐほん 耿紀 こうき 黄月英 こうげつえい 黄権 こうけん 黄皓 こうこう 孔秀 こうしゅう 黄承彦 こうしょうげん 公孫淵 こうそんえん 孔融 こうゆう 顧雍 こよう
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/52.html
200年 建安五年(漢) 皇帝 劉協(漢献帝) 皇后 伏寿(琅邪郡東武県・父の伏完は不其侯、桓帝の娘陽安公主を娶る) 皇太子 (空位) 三公(漢) 太傅:(空席) 太尉:(空席) 司徒:趙温(前衛尉・194~208) 司空:曹操(196~209) その他の要職(漢) 太常:? 光禄勳:? 衛尉:? 太僕:? 廷尉:? 大鴻臚:? 宗正:? 大司農:? 少府:? 大司馬:空席 大将軍:韓暹/袁紹(自称・197~202) 驃騎将軍:張済 車騎将軍:楊奉/董承→死亡 行車騎将軍:曹操 衛将軍: 地方官 司隸校尉:曹操(行車騎将軍) 豫州刺史:郭貢? 河南尹:駱業? 徐州牧:劉備? 冀州牧:袁紹(191~202) 兗州牧:曹操? 荊州牧:劉表(192~208) 主な事件 建安五年春正月、車騎将軍の董承、偏将軍の王服、越騎校尉の[禾中]輯は曹操を誅す密詔を受けるも事漏れ、壬午、曹操は董承らを殺す。三族皆殺す。《後漢書孝献帝紀》 六月、鄭玄は元城縣に至って危篤となり進めず卒す。年七十四。遺令に従って薄葬する《後漢書張曹鄭列傳鄭玄》 秋七月、皇子劉馮を立てて、南陽王と為す。《後漢書孝献帝紀》 七月壬午、南陽王劉馮薨じる。《後漢書孝献帝紀》 九月庚午朔、日食有り。詔して三公は至孝のもの二人を挙げ、九卿・校尉・郡国守相は各一人挙げさせた。皆封書して上表した。《後漢書孝献帝紀》 曹操は袁紹と官渡に於いて戦い、袁紹敗走する。《後漢書孝献帝紀》 冬十月辛亥、大梁に流れ星が有った。《後漢書孝献帝紀》 東海王劉祗が薨する。《後漢書孝献帝紀》 是歳、孫策死ぬ。《後漢書孝献帝紀》 誕生者 死没者 董承(車騎将軍・誅殺・建安五年1月9日) 王服(偏将軍・誅殺・建安五年1月9日) [禾中]輯(越騎校尉・誅殺・建安五年1月9日) 劉馮(南陽王・建安五年7月12日) 鄭玄: 注 ▲PAGE TOP 199年<< >>201年
https://w.atwiki.jp/anozero/pages/4613.html
前ページ次ページ割れぬなら…… 「出席をとります。 ミス・ヴァリエール」 「はーい」 「ミス・ツェルプストー」「はーい」 「あれ? 同じ声が2回聞こえたような……」 とうとうルイズは授業を休み始めた。 これ以上曹操達を放っておくと何が起こるかわからないからだ。 それから2日後…… 夜になり城門が閉鎖されると、曹操はいつも執務室で本を執筆する。 その真後ろ、それこそ「あててんのよ」が炸裂しかねない程の至近距離でペンの動きを観察する一人の少女が居た。 彼女は暇さえあれば読書をしているような人物であり、時と場合によっては授業よりも読書を優先させかねない…… 訂正、時と場合によっては授業よりも読書を優先させるような人である。 名をタバサといった。 彼女が王都にまで足を運んできたきっかけはわからないが、ここに留まっている理由は容易に想像がつく。 曹操が書いている本に興味を持ったからだろう。 きっとトリステイン魔法学園にあるどの本よりも。 一見すると、執筆活動の邪魔をしているようにも見えるが、何故か曹操はそんな彼女の行動を止めるつもりはないらしい。 「面白いのか?」 むしろ、それを黙認しているよな節すらある。 「兵法書。それも魔法が存在しない場所で成立したもの」 「『孫子』といってな、俺が前に居た国で書かれた文書だ」 「虚実、軍争、九変……実に興味深い」 「こっちには、こういった書物は無いのか?」 「ある。けど、戦争が始まってからの対処法に終始している。戦う前に何をするのかを説いた本は初めて見る」 「そうか」 ……会話内容だけ見れば、およそ親しい間柄を連想できないだろう。 しかし、タバサの説明を聞く曹操はどこか嬉しそうである。 少なくとも、傍から見ているルイズからはそう見えた。 「それなら『孟徳新書』とでも名づけて売り出してみるか?」 「お薦めはしない」 「新しい知識は独占すべきか?」 ……コク、と小さくうなずいた。 「名前は『孟徳新書』が良いと思う」 「何故だ?」 「箔がつく」 こんな和やかな会話が進んでいる間、ずっとタバサは曹操と密着したままだ。 部屋の隅で副官がガタガタと震えていた。 寒いからではない、怖いからだ。 ルイズは自分の心がドス黒い何かで覆われていくのを感じていた。 恐ろしいのは心が黒く染まっていく事ではない、染まる事に歓喜を覚えている事だ。 「『雪風』の2つ名は、ルイズに譲った方が良いんじゃないか」 「考えておく」 ……切れた、ルイズの中で何かが切れた、決定的な何かが。 その日の仕事は、ルイズの咆哮と共にお開きとなった。 ……翌日。 「出席をとります。 ミス・ヴァリエール」 「はーい」 「ミス・タバサ」 「はーい」 「ミス・ツェルプストー」「はーい」 「あれ? 同じ声が3回聞こえたような……」 ルイズは窓から伸びる朝日を受け、静かに眼を覚ました。 昨晩は精神力が尽きるまで暴れたせいか、体の節々が少し痛む。 窓を開けると、庭で箒を振るうメイドの姿があった。 「ソウソウはどこ?」 「はい、ソウソウ様なら先ほど城壁修理の査察に向かわれました」 またもや自分をおいて出かけたのかと、また黒いルイズが元気になる。 メイドは敏感にそれを察知して、そそくさと退散した。 考えてみたら、ルイズが目覚めた時に曹操が傍に居た事は一度も無い。 それに対して文句を言うつもりは……あるが、もう少しくらいはご主人様に気を遣っても良いような気がする。 ……いや、むしろ気を遣うべきだ。それが当然の事なんだ。 脳内辞書から『譲歩』という言葉を抹消したら、ルイズはすぐさま城壁へと歩き出した。 王都トリスタニアの城壁に張り付くように、幾人もの平民が作業を行っていた。 そこにメイジの姿は無い。 貴族というものは作る、建てる、といった作業は好むが、直す、繕うといった地味で牧歌的な作業を嫌う。 貴族の肩書きを剥奪されたメイジは時折城壁修理を行っている事もあるが、少なくともこの場には一人もいなかった。 そもそも重要な建築物には固定化をかけるのが当然であり、修理をする機会自体がまれな事でもある。 今日ここで行われている作業は、どちらかというと修理ではなく、むしろ増築にあたる。 万が一トリステインに大規模な反乱が起きた時に備えての行動である。 しかし、そういう地味な作業も貴族は嫌う。 おそらく、最後の仕上げとして固定化をかける以外は全てを平民に任せるつもりだろう。 曹操が馬を駆り、副官と共に査察に訪れた。 副官は満身創痍という単語が良く似合う恰好であったが、曹操の方は立派なものである。 そして積み上げられた煉瓦を見渡し、大きな声で言った。 「ここの頭はだれだ」 「へぇ」 周りよりも一段と高くそびえる場所から、曹操の声に応えた者がいた。 「この城壁修理の作業ぶりは実に見事だ! 君に王都城壁役の長を申しつける」 作業をしていた者達に動揺が走った。 何を言っているのだこの男は? という類の動揺である。 「ちょ、ちょっとお待ちくだせぇ。わしゃあ卑しいただの職人で……」 「手を休めず話せ!」 曹操の一喝で、職人達が慌てて作業に戻る。 「そんな役は聞いたことねぇですし、第一わしの祖先に貴族様はおりやせん」 「馬鹿者!!」 曹操はさらに声を張り上げる。 「役職は血筋によって与えられるものでも、ゲルマニアで行われているように金で売り買いするものでもない! 役職とは必要に応じて新設し、その仕事において最大の能力を持つ者が長をやれば良いのだ!」 その声は城壁を越え、王都内にも良く通った。 「シン、あの頭に城壁に関連するあらゆる権限を与えるよう手続きをとれ」 そう言い残すと、曹操はさっさと次の査察先へと駆け去った。 その2秒後、逆に副官に向かって全速力で駆けてくるナニかがあった。 「何勝手な事を言ってるのよあんたわあああぁぁぁぁーーーーーーっ!!!」 副官は爆発した。 危険を察知したのか、ただ単に運が良いだけなのか、曹操は無傷で執務室に戻っていた。 タバサは『六韜』の方に興味を移し、食い入るようにページをめくっていた。 そしてワルドが報告書を携えて主の帰還を待っていた。 ……さらに翌日。 「出席をとります。 ミス・ヴァリエール」 「ミス・タバサ」 「はい」 「ミス・ツェルプストー」 「2名欠席……と」 同じ頃、学園の広場でコルベールがガラクタらしき物体を注意深く細工していた。 今は授業が行われている時間帯なので、その場所には他に人影はなかった。 「コルベール」 どこからか、彼を呼ぶ声が聞こえた。 はて? と顔を上げてみると、曹操がこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。 「やあ、ソウソウ君。しばらく見なかったが、どうしていたのかね?」 極めて日常的な挨拶をしてみた。 しかし、曹操は表情は極めて険しい。 それだけで彼は不穏な空気を読み取って、無意識のうちに身構えていた。 「貴様は何故生きておる!」 その言葉がきっかけとなり、コルベールは平穏な日常から乖離していく事になる。 前ページ次ページ割れぬなら……
https://w.atwiki.jp/sangokushi11/pages/667.html
テイイク 列伝 曹操の参謀。程武の父。程暁の祖父。本名は程立。 【演義】 荀彧の推薦で曹操に仕え、自身は郭嘉を推薦する。徐州侵攻中、曹操が呂布に兗州を奪われた時、荀彧と協力して三県を守り地盤を保持した。倉亭の戦いでは「十面埋伏の計」を献策し、袁紹軍を大破。曹操軍が劉備軍の軍師・徐庶に苦戦すると、母親を保護して偽手紙を作り、徐庶を味方に引き入れる策を献じる。赤壁の戦いでは火攻めを警戒するよう曹操に進言し、黄蓋の偽りの投降をいち早く見抜くが、敗戦を食い止められなかった。 【正史】 泰山で日を支える夢を見、程「昱」と改名した。 能力値 統率 武力 知力 政治 魅力 総合 軍事能力 統+武 統+武+知 素質 70 49 90 79 58 346 119 209 順位 218 438 18 85 389 138 385 147 偏差値 55.7 47.5 65.2 60.2 49.2 58.9 51.4 57.9 成長期 普通 普通 普通 普通 普通 - - - 能力持続 短い 短い 長い 長い 長い - - - 兵種 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 適性 A C C C A C 部隊 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 値 46 66 34 56 33 49 39 49 44 54 34 47 順位 374 126 448 304 454 298 444 312 379 97 449 252 偏差値 49.9 58.3 45.5 51.5 45.8 51.7 45.6 51.8 50.8 59.8 46.2 53.2 部隊攻撃力/防御力は技巧研究を全て終えた時点での値。兵器は木獣、水軍は闘艦。 特技 掎角 一斉攻撃時、50%の確率で混乱させる マスクデータ 相性 出身地 起用 戦略傾向 地元執着 義理 野望 漢室 生年 登場 没年 死因 性格 音声 口調 24 兗予 実績 中華統一 重視 2/5 3/5 2/3 141 184 220(80歳) 自然死 剛胆 剛胆 丁寧 舌戦 得意話題 保有話術 大喝 詭弁 無視 鎮静 逆上 時節 ○ ○ ○ ○ 親愛・嫌悪 状態 武将名 程昱 親愛 郭嘉、荀彧 郭嘉、荀彧 嫌悪 なし なし 血縁 世代 ● 1 程昱 2 程武 3 程暁 シナリオ シナリオ 年齢 身分 所在 勢力 忠誠 爵位・官職 功績値 配偶者 義兄弟 S1 184年 1月 黄巾の乱 44歳 未発見 濮陽 - - - 0 - - S2 190年 1月 反董卓連合 50歳 在野 濮陽 - - - 2000 - - S3 194年 6月 群雄割拠 54歳 一般 陳留 曹操 100 議郎 4000 - - S4 200年 1月 官渡の戦い 60歳 一般 濮陽 曹操 100 郎中 16000 - - S5 207年 9月 三顧の礼 67歳 一般 濮陽 曹操 100 秘書令 21000 - - S6 211年 7月 劉備入蜀 71歳 一般 許昌 曹操 100 秘書令 21500 - - S7 225年 7月 南蛮征伐 - 死亡 - - - - - - - S8 251年 1月 英雄集結 - 一般 許昌 曹操 100 議郎 2000 - - S9 198年 1月 呂布討伐戦 58歳 一般 濮陽 曹操 100 太楽令 8000 - - S10 203年 1月 袁家の戦い 63歳 一般 濮陽 曹操 100 都尉 19000 - - S11 217年 7月 漢中争奪戦 77歳 在野 濮陽 - - - 22000 - - S12 187年 4月 何進包囲網 47歳 未発見 濮陽 - - - 0 - - S13 191年 7月 序を制する者 51歳 在野 濮陽 - - - 2000 - - S14 251年1月 女の戦い 未発見 濮陽 - - - 0 - - 諸葛亮をも超えるビッグ軍師(身長191cm)。 演義では老獪な献策担当だが、史実では気骨ある策士とされている。 知力90で統率もそこそこあるが、特技が微妙な所為もあり曹操軍ではあまり目立てない。 しかし、意外と曹操の計略が効かない武将は多いので、その対策として使えなくも無い。 副将としては優秀。また、性格が豪胆で舌戦も強いので、論客にするのもいいだろう。 -- (名無しさん) 2010-06-17 17 54 48 義理がなぜか低い。 -- (名無しさん) 2010-08-22 20 41 26 ↑劉備入蜀までは曹操軍に所属しているのに漢中争奪戦で曹操軍を突然離脱するのも関係してるのかな? -- (名無しさん) 2010-08-23 09 19 38 ↑その時期はすでに引退してたから在野なんじゃね -- (名無しさん) 2010-08-23 09 32 17 性格が剛直だったとわざわざ記されているのと食人伝説からかな。<魅力 離脱は自主引退。むしろ珍しいほど節義をわきまえた勇退だと思う。 曹操曹丕と気難しい二代から揃って絶大な信頼を与えられた紛れもない名臣。 -- (名無しさん) 2010-08-23 09 35 44 高い知力と寿命の長さで頼りになるものの、義理が低めになってるせいで誹謗を起こす可能性がある。 君主の頭が悪い時にはまず勝ち目が無いものと諦めた方がいい。(もっとも、その時の舌戦で彼に知力経験が10入るのであれば負けても問題はないか?) -- (名無しさん) 2010-10-06 23 40 09 特技の掎角は一斉攻撃の際に発動するため、非戦法系の武将の副将にするといい。 皮肉なことに、魏には戦法系の武将が少ないため、候補対象を選ばない。 威風の張遼、沈着の徐晃、昂揚の張郃の他にも、 急襲・騎兵Sの夏侯淵など、誰でも大丈夫の筈。 -- (名無しさん) 2010-10-07 12 08 27 性格豪胆なのは文官イメージだけど官位は武官ばっかだし 呂布防いだり袁紹を油断させて拠点守ったりと意外と武闘派だったり 軍議でもよく言い争いになったりしてたってとこからじゃないかな。 義理は恐らく演義のイメージからかと・・・ -- (名無しさん) 2010-12-08 03 43 22 洞察持ちや高知力・高統率武将をも黙らすことが出来る人 曹洪や張遼などと組ませるといいかも 彼を使うなら積極的に一斉攻撃を狙っていこう -- (名無しさん) 2010-12-19 03 59 43 この人って何故か知力がぱっとしないんだよね 君主である曹操よりも下だし どうしてなんだろうか? -- (名無しさん) 2011-03-21 00 01 18 個人的には射程をつけるのをおすすめする。楽進の副将にしてあげよう。無論キ角も悪くはない -- (名無しさん) 2011-04-27 18 20 31 知力の低さは俺も思うっす。94くらいあっていいと俺思う。義理も上げてほしいっす -- (名無しさん) 2011-06-25 09 16 53 生まれた年が意外に早いんだな 能力の劣化が早いのが欠点かな -- (関羽大好き) 2011-08-07 20 12 53 黄忠より6歳年上なのか -- (名無しさん) 2011-10-03 03 15 35 正史的に、頭は切れるけど積極的に献策した描写が少ないからじゃないかな?>知力90 正史の兗州を守るときに名士の協力を取り付けた+演義の十面埋伏のエピソードを反映して欲しい。 -- (名無しさん) 2012-01-23 00 01 59 前作のⅩでは使い勝手の良い武将だったのだが今作では微妙な立ち位置に 能力の下がった武将多すぎないか? -- (程・郭・荀・の三拍子が序盤軍師筆頭だったが) 2012-05-23 13 44 03 でもみんか特技が渋い。魏は圧倒的な特技こそ少ないが その分自分なりに組み合わせる楽しみがあると思う。 -- (名無しさん) 2012-08-06 12 31 09 曹洪と組ませると、一斉攻撃で連戦が発動した時に、 50%が二回なのでほぼ確実に混乱してくれる。 -- (名無しさん) 2014-08-21 21 06 49 ↑さすがに75%をほぼ確実呼ばわりはどうかと思う -- (名無しさん) 2015-01-07 20 13 09 それだと連戦の2回目で確実に発動してない? 実際はもうちょい低いような。。。知らんけどw -- (名無しさん) 2015-01-10 19 30 07 一斉攻撃の使い勝手を考えると、部隊数の多い乱戦時に真価を発揮する。 確率と位置取り次第とは言え、気力消費無しで能力無関係に混乱に陥れれるのは大きい。 自身の知力の高さもあり、乱戦時の同討にかかりにくいのも強みだろう。 武力も軍師としてはまずまずあり、不慮の一騎打ちの初撃に耐える確率も高い。 大勢力同士の大混戦が見込まれる時の、主力部隊の副将として非常に優秀。 -- (名無しさん) 2015-02-15 23 53 00 少数寡兵・多部隊(能無し兵1でも)で最大効果を発揮する特技のため相手を弓櫓付近まで引き込んでから発動させれれば意外とダメージが(素直に乱突→騎兵の方が圧倒的だが) 気力と金が尽きた後なら…、ないな曹操軍では特に -- (名無しさん) 2015-02-16 01 17 58 性格剛胆、知力90(変動が激しいが)、鎮静以外の話術と論客として非常に強い。 曹操軍では中々論客を使う機会はないかもしれないが、 敵が多くなりがちな事を考えるといれば心強い事も多いだろう。 他の曹操軍軍師と比較しても論客をつけるには筆頭と言えるレベル。 -- (名無しさん) 2015-08-07 15 41 09 ↑いつぞやの論客兄貴かよ…(´・ω・`) それはさておき、知力高1回で95に達するということから、高い知力を活かしたいところ。特技は深謀や鬼謀といった、計略系のものに書き換えるとさらに活かせる。 -- (名無しさん) 2016-01-07 15 05 54 ↑いや程昱は論客つけるのにピッタリだろう。剛胆で話術も隙が無いし、他の軍師は皆冷静で舌戦に不安が残る。 曹操は四方を敵に囲まれているシナリオが多いから、論客持ちがいると戦力を集中できて便利。 逆に計略隊にするには微妙。生年が早いせいで知力が劣化しているシナリオが多く、知力高1発では95に届かない。 何より特技を付けるにしても素で95オーバーかつ統率・適正・寿命・義理で上回る賈詡というライバルがいるので… -- (名無しさん) 2016-01-08 15 38 33 名前 コメント すべてのコメントを見る
https://w.atwiki.jp/bokuserve/pages/2430.html
【元ネタ】三国志 三国志演義 【CLASS】ライダー 【マスター】 【真名】曹彰 子文 【性別】男性 【身長・体重】182cm・84kg 【属性】混沌・中庸 【ステータス】筋力A 耐久B 敏捷C 魔力E 幸運D 宝具A 【クラス別スキル】 対魔力:D 一工程(シングルアクション)による魔術行使を無効化する。 魔力避けのアミュレット程度の対魔力。 騎乗:A 幻獣・神獣ランクを除く全ての獣、乗り物を自在に操れる。 【固有スキル】 勇猛:A 威圧・混乱・幻惑といった精神干渉を無効化する能力。 また、格闘ダメージを向上させる効果もある。 軍略:C 一対一の戦闘ではなく、多人数を動員した戦場における戦術的直感力。 自らの対軍宝具の行使や、逆に相手の対軍宝具に対処する場合に有利な補正が与えられる。 戦闘続行:C 瀕死の傷でも戦闘を可能とし、死の間際まで戦うことを止めない。 【宝具】 『驍騎戦車』 ランク B 種別:対軍宝具 レンジ 5~50 最大捕捉 500人 田豫が作り上げた中華ガジェット。多くの弩砲で武装された重戦車。 停車、変形することで、円状の戦闘陣地を形成し、四方へ弩砲による弾幕を張ることを可能とする。 敵陣突破と野戦築城を両立させるこの兵器が、戦術的にどれだけ有用であるかは論を待たない。 【解説】 三国時代、魏の武将。曹操の四男。 黄鬚と渾名された猛将で、腕力と武芸に秀で、激しい気性の持ち主だった。 父である曹操は曹彰の気性を危ぶみ、学問に励むように命じたが、 曹彰自身は将軍として活躍することを望んでおり「博士になどなれるか」と大いに不服であったという。 北方の烏丸族が反乱を起こした時、曹彰は討伐軍の大将に任ぜられる。 勇んで出陣した曹彰であったが、兵馬が集結しないうちに敵の襲撃を受ける。 窮地に陥った曹彰であったが、田豫の策を用いて車で円陣を作り、弓弩で敵を退却させる事に成功。 さらに、疲弊した自軍を率いて追撃戦を行い、大いに敵を打ち破った。 この大勝によって日和見をしていた異民族も魏に服従を誓い、北方は平定されたという。 帰還した曹彰は、兄である曹丕の忠告を聞き入れて、これらの戦功を諸将のものとして曹操に報告した。 曹操は曹彰が将としての度量を見せた事を喜び「黄鬚よ。まったく立派になりおったわい」と述べたという。 また曹操と劉備が漢中で激突する形勢となると、曹操は曹彰を援軍として呼び寄せることとした。 昼夜兼行で漢中へと急いだ曹彰ではあったが、到着する前に曹操は退却を決断し、そのまま帰還することとなった。 曹操が没すると曹丕が後を継ぐこととなったが、曹彰は帝位への野心を見せたため(あるいは曹植を帝位につけようとしたため) 曹丕から冷遇されるようになったという。 あるいは、その剛毅を危ぶまれ、毒殺された、とも。
https://w.atwiki.jp/san-puz/pages/302.html
決戦!長坂の戦い 2014/03/01(土)00 00~2014/03/02(日)23 59の期間、超高難易度クエストとして初登場 公式サイトのクエストに関する記事 クエストをクリアすると★6【権威掌握】曹操を入手できる(確定) 「覇者級」では「魏」ユニットの代わりに「毒」ユニットが出現。クエストをクリアすると★7【もう一つの可能性】曹操を入手できる(確定) このクエストにおいて軍略効果が超強力になる武将が同期間にレアガチャに登場。 【開催履歴】 2014/05/17(土)00 00~2014/05/18(日)23 59 2014/09/20(土)12 00~2014/09/22(月)18 59 2015/01/10(土)12 00~2015/01/13(木)18 59 覇者級追加・特効軍略変更 2015/04/11(土)12 00~2015/04/13(木)18 59 2015/05/28(木)19 00~2015/05/29(金)18 59 2015/07/15(水)19 00~2015/07/16(木)18 59 主なドロップ武将 武将名 同技能(※)武将 技能Lvmaxまで 【もう一つの可能性】曹操 102体(2倍時51体) 3体(2倍時2体) 【権威掌握】曹操↓覚醒後【中原の覇者】曹操 - 43体(2倍時22体) (※)「効果が同じ技能」を意味し、強化の素材選択時に「技能大」と表示される武将。 特効武将 特定の期間、レア武将ガチャで下記の武将が入手できる。 これらの武将はこのクエストのみで軍略が強力なものに変化する。 2015/01/10(土)12 00~2015/01/13(木)18 59開催分より、決戦軍略が強化された。 武将名 決戦軍略 【天下の大豪傑】張飛↓覚醒後【橋上の仁王】張飛 味方の「蜀」武将のHPと攻撃力と回復力を3倍にする。毒ユニットがかなり出現しにくくなる 【雌伏の時】劉備↓覚醒後【明日への逃走】劉備 HPが80%以上のとき、受けるダメージを激減させる。毒ユニットがかなり出現しにくくなる 超弩級 中原の覇者 【体力:50、合戦:5】【優劣:蜀→魏→(漢、群)→蜀】 【獲得目安】資金:28010、EXP:5510(固定) 【ミッション】コンティニューなしで攻略!(報酬:無償宝玉×120個) +【序文】 袁紹を破り、北の憂いを消した曹操は、 数十万の大軍を率い、南下を開始する。 荊州の客将であった劉備は、劉表死去後 のお家騒動により梯子を外され、寄る辺 無き逃避行を強いられた。 そして、長坂の地で、劉備軍はとうとう 曹操に追いつかれてしまう。しんがりを 守るは――張飛率いる僅か十数騎だった。 「ここは、絶対、通さねぇ!」 +【後記】 「退け! 人外に挑むは勇気にあらず! …しかし、張飛とはこんなに恐ろしい 男だったのか…」 身一つで曹操直卒の軍に対峙した張飛は、 その気迫故、曹操に戦端を開く隙を全く 与えず、また、曹操も、襄陽、広陵など、 劉備の拠点になり得る地を制圧出来た為、 一旦、兵を退く。しかし、これにより彷徨 う事になった劉備は孫家と結びつき、結果 あの決戦への道が拓かれてゆくのだった。 戦 勢 武将 ターン 攻撃 HP 防御 使用技能 ドロップ B1 魏 張遼 1 7844(Up時10197) 約550,000 約3600 「武人の威圧」技能封じ4人3ターン「武人の攻勢」攻撃力Up3回(1.3倍) B2 群 張繍 2 7501(Up時13501) 369,840 4700 「武人の豪気」攻撃力Up5回(1.8倍)「捨て身の突進」割合ダメージ(現HPの55%)「速攻!」4500&次の攻撃ターン数が1になる ★3Lv1 漢 張コウ 2 7879(Up時14182) 304,460 「武人の豪気」攻撃力Up5回(1.8倍)「速攻!」4727&次の攻撃ターン数が1になる ★2Lv1 魏 文聘 2 7707 333,940 ★2Lv1 群 臧覇 2 7310(Up時14620) 268,260 「気を溜める」攻撃力Up1回(2倍)「速攻!」4386&次の攻撃ターン数が1になる ★2Lv1 漢 蔡瑁 2 6907 276,550 ★2Lv1 B3 魏 夏候惇 2 16105(Up時32210) 813,660 約4000 「気を溜める」攻撃力Up1回(2倍)「猛将の速攻」8052&次の攻撃ターン数が1になる「猛将の痛撃」32210ダメ&次の攻撃ターン数が6になる B4 群 張繍 3 15960 648,210 「捨て身の突進」割合ダメージ(現HPの75%)「電光石火」15960&次の攻撃ターン数が1になる 魏 楽進 2 9907(Up時19814) 521,055 約4700 「気を溜める」攻撃力Up1回(2倍)「電光石火」9907&次の攻撃ターン数が1になる 群 賈ク 2 11001 534,435 「攪乱の策略」技能封じ2人3ターン B5 魏 【中原の覇者】曹操 2 26004(Up時52008) 5,011,520 7500以上 「奸雄の威圧」技能封じ3人10ターン「権謀術数」回復禁止8ターン「気を溜める」攻撃力Up1回(2倍)「覇者の采配」20803&次の攻撃ターン数が1になる「疾風怒涛の追撃」91012 ★6lv1 覇者級 中原の覇者(毒出現) 【体力:50、合戦:5】【優劣:蜀→魏→(漢、群)→蜀】 【獲得目安】資金:41020、EXP:11020 【ミッション】「呉」「蜀」「漢」「群」を入れた部隊で攻略!(報酬:無償宝玉×120個) 【神速攻略報酬】 S(15ターン以内):【もう一つの可能性】曹操×1体 A(20ターン以内):【権威掌握】曹操×1体 B(35ターン以内):友情pt400 +【序文】 しんがりを任された張飛は、僅か十数騎 を率いて、橋上で曹操軍を迎え撃った。 最初こそ、打ち掛かってきた敵勢も、 いまは張飛の武を恐れ、微動だにしない。 天下の曹操軍もこの程度か、と。張飛が 嘆息を漏らしかけた、その時――敵兵に、 稲妻のような緊張感が走り抜けた。 「…ほぉ。ようやく大将のお出ましか。」 油断は微塵もなく、慢心は欠片もない。 覇者となった男・曹操の姿が現れた。 +【後記】 血で血を洗う闘争は、熾烈を極めた。 曹操の登場により、将兵は命を擲つ覚悟 で、張飛へと殺到する。蛇矛がうなり、 命がけの兵の首が飛ぶ度、張飛は人では ない『何か』へ確実に近づいていく――。 人と、けもの。その境目を越えかけた時、 曹操は兵を止めた。張飛の武を天下一と 認め、敬意を払ったのである。 かろうじて人の形を取り留めた張飛は、 敬意の返礼に、めいっぱいの力で蛇矛を 振るい、長坂橋を一刀で落としてみせた。 戦 勢 武将 ターン 攻撃 HP 防御 使用技能 ドロップ B1 魏 張遼 1 13482 B2 群 張繍 2 10314 「速攻!」6188&次ターン数が1になる 漢 張コウ 2 10834 「武人の豪気」攻撃力Up5回(1.8倍)「速攻!」6500&次ターン数が1になる 魏 文聘 2 10957 ★2Lv10 群 臧覇 2 10052 「気を溜める」攻撃力Up1回(?倍)「速攻!」????&次ターン数が1になる 漢 蔡瑁 2 ★2Lv10 B3 魏 夏候惇 2 22144 「気を溜める」攻撃力Up1回(?倍)「猛将の速攻」11072&次の攻撃ターン数が1になる B4 群 張繍 3 21945 「捨て身の突進」割合ダメージ(現HPの75%)「電光石火」21945&次の攻撃ターン数が1になる 魏 楽進 2 13622 「気を溜める」攻撃力Up1回(2倍) 群 賈ク 2 15126 B5 魏 【もう一つの可能性】曹操 7 140004 「躊躇なき行軍」先制防御力Up3ターン(?倍)「奸雄の威圧」通常攻撃&技能封じ3人12ターン ★7Lv6 攻略(覇者級) 特攻張飛・呉蜀漢群PT 呉蜀漢群ミッション対応 編成例:L決戦馬超139、豪傑甘寧139、勅命関羽139、女傑馬姫139、クリスマス袁紹139 特効張飛PT あれば便利な技能:蜀変換、攻撃力UP、盤面入れ替え(君主) 編成例:L諸葛亮、劉備,軍神関羽、張飛、馬超 編成例:L槍趙雲、決戦劉備、張姫、関平、劉備 特効劉備&特効張飛PT 編成例:L特効劉備、劉備,軍神関羽、張飛、馬超 攻略(超弩級) +特効張飛PT 特効張飛PT コンティニュー目安:ノーコン報告あり あれば便利な技能:蜀変換技能、遅延技能、防御系技能など。 作戦:ボスまでにスキルターンを稼いでおけば、ボスで「疾風怒涛の追撃」が来ない限りは問題なく倒せることが多い。 構成例 大将 援軍 副将 武将 技能 蜀変換 攻撃力UP 入れ替え 入れ替え 防御 攻撃力UP 上記構成のプレイ動画 構成例 大将 援軍 副将 構成例 大将 援軍 副将 武将 武将 技能 攻撃力UP 蜀変換 蜀変換 攻撃力UP 遅延 蜀変換 技能 蜀変換 攻撃力UP 遅延 桃変換 蜀変換 蜀変換 コメント ↑だとHP10万超えです。 -- 2014-09-21 12 57 04 F特効張飛+L諸葛亮、張飛、ミク、糜夫人、馬超。F特効張飛+L諸葛亮、張飛、糜夫人、馬超、夷陵劉備等でノーコン。軍略が圧倒的なので特効張飛が1枚あれば蜀パならなんでもいけそう。 -- 2014-09-22 12 24 53 覇者級、ボス曹操にダメージ1ずつしか与えられなかった。 -- 2015-01-10 23 48 44 覇者級、蜀で90000 #10145; #65038;1にされてしまう -- 2015-01-11 02 45 41 覇者級曹操の攻撃140004。 -- 2015-01-11 13 51 08 覇者級、蜀パ:Lノーマル諸葛亮、ノーマル劉備,軍神関羽、ノーマル張飛、馬超、F特効張飛で1コン(Lvは張飛以外は139、技能MAX) B4の張繍が硬すぎて、毎回ここでやられる。ノーマル劉備を復習劉備に変えると攻撃力はUPするけど、回復力がきつくなる。Lも特効ならノーコンできますね、きっと。 -- 2015-01-11 16 32 15 曹操どうしても貫通できないときはカンギンペイも使える -- 2015-01-12 09 30 51 【明日への逃走】劉備の軍略「受けるダメージを激減させる」は1/5でした。 (B2張繍の「捨て身の突進」割合ダメージ(現HPの55%)で11%しかダメージを喰らわなかった) -- 2015-01-13 13 41 43 ↑と↑↑↑で書いたものです。特効劉備ゲットしたので報告です。 やはり特効が2人いるとかなり安定しますね。 覇者級は余裕でノーコンいけました(特効劉備だと攻撃力UPが無い分、やや時間がかかりますが受けるダメージを激減(1/5)でかなり楽になります) L【明日への逃走】劉備、F【橋上の仁王】張飛、ノーマル劉備,軍神関羽、ノーマル張飛、ノーマル馬超(張飛以外はLv139、技能MAX) 道中は馬超で変換して軍神関羽で攻撃UPの繰り返し、毒がたまると劉備で掃除、80%を下回らないようたまに特効劉備で回復(これは使わなくても大丈夫なくらい)、B5では張飛で遅延させて馬超で変換し、軍神関羽UP+特効張飛UPで攻撃(ただし、これだと5連でも1撃で沈まないため、馬超と軍神関羽のコンボがあと2〜3回必要) ちなみに、B5の曹操は、7ターン攻撃を2回後から3ターン攻撃になりました。 -- 2015-01-13 14 28 37 ↑訂正です。 B5の曹操、7ターン攻撃→3ターン攻撃は体力減少で発動かもしれません。 -- 2015-01-13 14 36 49 コメント すべてのコメントを見る
https://w.atwiki.jp/bokuserve/pages/1847.html
【元ネタ】中国・史実 【CLASS】キャスター 【マスター】 【真名】楊脩 【性別】男 【身長・体重】cm・kg 【属性】秩序・中庸 【ステータス】筋力E 耐久E 敏捷D 魔力B 幸運E 宝具B 【クラス別スキル】 陣地作成:C 魔術師として、自らに有利な陣地を作り上げる。 小規模な”工房”の形成が可能。防御用に竹椑楯が設置される。 道具作成:D 魔術的な道具を作成する技能。 文学関連のみならず、戦場に必要な兵器や物資も作成出来る。 【固有スキル】 仕切り直し:D 戦闘から離脱する能力。機を見て逸早く迅速に撤退しうる。 人間観察:D 人々を観察し、理解する技術。張松の才能を見抜いている。 呪歌:E 歌を用いた魔術体系。曹丕と文学を論じるほど才能があった。 曹植への返翰や「神女賦」が現存するが、多くが唐代以降に散逸している。 【宝具】 『不及三十里(およばざることさんじゅうり)』 ランク:B 種別:結界宝具 レンジ:1~99 最大捕捉:1000人 キャスターが曹操と共に孝女曹娥の碑を訪れた所、背面に「黄絹幼婦外孫韲臼」の八字があり、 キャスターは即座にその意味を解したが、曹操はそこから立ち去る事30里(1里が415m)にして答えを悟り、 「我が才の卿に及ばざること乃ち三十里なる事を覚った」という。 自分ないしは馬の足で三十里を移動しなければ、キャスターへの攻撃にタイムラグが発生し、命中率が大幅に低下する。 キャスターに接近すればする程、タイムラグは短縮可能。 【Weapon】 『無銘・剣』 キャスターから曹丕に献上されたのと同型。曹丕は即位後、既に故人となっていたキャスターが献上してくれた剣を見返して、 自分に冷淡であったと思い起こしていたという、実に曹丕らしい逸話がある。 【解説】 後漢末期の官人(175~219)。字は徳祖。母方の伯父は袁術。曹操に仕えた。 謙虚で才能があったといい、有名な鶏肋の逸話が残るほか、『世説新語』には曹操の出した謎掛けを解いてみせたという複数の逸話がある。 名門出身であり、辛口批評で知られる禰衡にも評価された才能があったため、20歳で曹操に採用されたが、45歳の時に処刑された(一説に死亡時30歳)。 曹操晩年の出来事であり、動機については曹植とキャスターが仲がよかったのを危険視したとも、キャスターの才能を恐れたともされるが、明らかでない。 キャスター自身、曹植との交わりをあからさまに絶つ真似はしなかった。 なお、曹操と共に曹娥の碑を見たというが、碑があるのは呉の領域であり、両者がこんな所を逍遥したという事実はない。 キャスターが曹操の謎を解くという「定番」から生まれた話であろう。 謎の意味は「黄絹」は色の付いた糸だから「絶」、「幼婦」は少女だから「妙」、「外孫」は女(むすめ)の子だから「好」、 「韲臼」は辛を受ける物であるから、旧字体の「辞」が出て来て「絶妙好辞」、表の碑文を讃えたものであった。
https://w.atwiki.jp/sangokushi11/pages/556.html
ソウヒ 列伝 曹操の次男。母は卞氏で、曹彰、曹植、曹熊の実兄。甄氏との間の子が曹叡。魏の初代皇帝・文帝。 【演義】 袁家の居城・鄴を攻略した際、袁煕の妻・甄氏を娶った。曹植と後継の座を争うが、長幼の序を重視する賈詡らの口添えで皇太子に就任。曹操が死ぬと魏王となり、献帝の禅譲を受けて魏の初代皇帝となる。その後、たびたび蜀や呉を攻めるが戦果はなかった。在位7年、曹真、陳羣、司馬懿に次帝・曹叡の後見を託し、病没した。 【正史】 その治世で制定された九品中正法は、後の貴族制度の礎を築いた。曹操、曹植と並ぶ建安文学の代表者。 能力値 統率 武力 知力 政治 魅力 総合 軍事能力 統+武 統+武+知 素質 70 71 83 86 82 392 141 224 順位 218 202 50 32 53 25 193 74 偏差値 55.7 56.4 61.8 63.3 61.9 65.9 56.4 61.1 成長期 普通 普通 普通 普通 普通 - - - 能力持続 短い 短い 短い 短い 短い - - - 兵種 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 適性 B B A B C C 部隊 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 値 60 59 57 64 61 63 65 56 50 42 50 47 順位 185 208 190 211 81 125 205 205 263 276 236 252 偏差値 55.9 55.1 55.9 54.9 60.3 58.7 55.6 55.2 53.9 52.5 54.2 53.2 部隊攻撃力/防御力は技巧研究を全て終えた時点での値。兵器は木獣、水軍は闘艦。 特技 射手 森に弩兵戦法可能 マスクデータ 相性 出身地 起用 戦略傾向 地元執着 義理 野望 漢室 生年 登場 没年 死因 性格 音声 口調 26 兗予 能力 中華統一 重視 2/5 5/5 1/3 187 200 226(40歳) 自然死 冷静 冷静 尊大 舌戦 得意話題 保有話術 大喝 詭弁 無視 鎮静 逆上 時節 ○ ○ ○ ○ 親愛・嫌悪 状態 武将名 曹丕 親愛 夏侯尚、呉質、司馬懿、陳羣、孟達 郭氏、夏侯尚、夏侯楙、呉質、司馬懿、陳羣 嫌悪 王忠、何晏、曹洪、曹植 曹植 血縁 世代 ● ● ● ● 1 曹操 ● 曹仁 曹純 曹洪 ● 2 曹昂 曹丕 曹彰 曹植 曹熊 曹沖 曹宇 曹休 曹真 3 曹叡 曹霖 曹奐 曹爽 曹羲 曹訓 4 曹芳 曹髦 シナリオ シナリオ 年齢 身分 所在 勢力 忠誠 爵位・官職 功績値 配偶者 義兄弟 S1 184年 1月 黄巾の乱 - 未登場 陳留 - - - 0 - - S2 190年 1月 反董卓連合 4歳 未登場 陳留 - - - 0 - - S3 194年 6月 群雄割拠 8歳 未登場 陳留 - - - 0 - - S4 200年 1月 官渡の戦い 14歳 一般 許昌 曹操 120 侍郎 7000 - - S5 207年 9月 三顧の礼 21歳 一般 鄴 曹操 120 太史令 16000 甄氏 - S6 211年 7月 劉備入蜀 25歳 一般 鄴 曹操 120 太史令 16500 甄氏 - S7 225年 7月 南蛮征伐 39歳 君主 洛陽 曹丕 - - 40000 - - S8 251年 1月 英雄集結 - 一般 許昌 曹操 120 - 0 甄氏 - S9 198年 1月 呂布討伐戦 12歳 未登場 許昌 - - - 0 - - S10 203年 1月 袁家の戦い 17歳 一般 許昌 曹操 120 侍郎 8000 - - S11 217年 7月 漢中争奪戦 31歳 一般 鄴 曹操 120 太僕 28000 甄氏 - S12 187年 4月 何進包囲網 1歳 未登場 陳留 - - - 0 - - S13 191年 7月 序を制する者 5歳 未登場 陳留 - - - 0 - - S14 251年1月 女の戦い - 一般 許昌 卞氏 100 左僕射 2000 甄氏 - 固有台詞 元服「この曹丕 父上の嫡男の名に恥じぬ 働きをしてご覧に入れます」 処断時「くっ…… 【一人称】は最期まで 父上を超えられぬのか……」 戦はあまり上手ではなかった次男坊。とは言っても射手持ちなこともあり、戦闘では重宝する特技なので寿命が尽きるまで前線で戦ってもらう方が良いかもしれない。 -- (名無しさん) 2016-02-05 20 26 14 嫌悪には于禁つけてもよくない? あの仕打ちは元から嫌っていたとしか思えない。 -- (名無しさん) 2016-03-11 14 30 15 周泰の水神とこいつの射手だけはどうもしっくりこない。どうして射手なの?計略系なイメージなんだが -- (名無しさん) 2016-06-02 16 38 42 ↑騎射が得意だからだろな騎馬適正も最低ではないしな、 ↑4在野として彷徨っている所を一発で登用できると考えれば弱点では無いのでは? -- (名無しさん) 2016-06-02 17 22 31 森の敵に撃てるようになるだけって思ってたが、森の敵には火矢の成功率95%になるのな。結構ありかもしれん -- (名無しさん) 2016-06-05 01 01 54 好き嫌いがパナい皇太子様 -- (名無しさん) 2016-06-20 04 46 09 父の能力を全て一回り小さくした感じの2代目。 特技的には黄忠と相性がいいが、悲しいかな、別勢力である。 -- (名無しさん) 2016-10-30 16 16 11 一応S2では黄忠は宛にいるため、曹操勢力で狙おうと思えば狙えなくもない 相性がかなり離れているので、曹操と義兄弟にでもなっておきたいところ。 -- (名無しさん) 2016-10-30 21 48 24 器の小さい三流の二代目 -- (名無しさん) 2017-01-28 07 06 52 ↑禰衡以下の人物評だな。統治は一流なのは疑いようはあるまいに……器はちっちゃいが -- (名無しさん) 2017-01-28 08 37 59 どっかの人が曹丕が最もやっちゃいけない失策は早死にした事とか言ってたな -- (名無しさん) 2017-08-21 17 01 09 曹丕、曹叡が立て続けに早死したことが魏が滅んだ一番の原因だね。曹丕と曹叡には、司馬懿も忠誠を誓っていたようだし・・・(何故か曹叡の贅沢三昧を諌めなかったりと、少々裏があるような気もするが) ゲームでは司馬懿からの親愛があるが、曹丕の寿命は短いので太守などにはしないようにしよう。 弩の適性がわりとイケてるので、兄弟当然に育った曹真と組ませて技巧稼ぎ要因に・・・なんて使い方も一興。率いることが出来る兵数的に贅沢すぎる気もするが。 -- (名無しさん) 2017-09-16 22 37 21 曹丕は性格があまりにも悪すぎるから、長生きしててもどっかで限界は来たと思うけどね。歳とったら人格的な欠点が浮き彫りになりやすいし。 -- (名無しさん) 2017-09-20 09 51 56 こいつ魅力はもっと低くて良くない? 能力はともかく度量が無さ過ぎた。わずかな私怨でも必ず報復したし。 -- (名無しさん) 2017-10-04 13 40 45 僅かな私怨でも必ず報復したのは法正だよ。 人間としての魅力というより、彼も曹操と同じく才能で人を引きつけるタイプだったっぽい。カリスマも魅力にカウントされてるっぽいから、そこまで低くすることはできまい。。 上の人も書いているが、能力は曹操を一回り小さくした感じ。 一応曹操に付き従って転戦した歴戦の将でもあるのだが、能力は典型的な君主タイプ。前線にも出られるが、単体だと微妙になりやすいので、義兄弟などで武力、統率を補う運用も考えて良いと思う。 司馬懿から親愛があるおかげで、超級でも彼が裏切ることを心配せずに運用できるのも曹操と比べた時の利点か。 -- (名無しさん) 2017-10-06 22 01 22 魅力はカリスマ&人間性も含まれるが、(当時の)世間対する影響度も加味されているから、なんでこいつがこんなに高いの?ってのはこれではある話 劉禅は語呂合わせなので除く -- (名無しさん) 2017-10-09 14 24 23 固有ゼリフ、全能力が父親に及ばないことを考えると切ないものがあるな -- (名無しさん) 2018-09-24 07 41 43 正直こいつは曹操の後を継いで王になっただけという印象なんだがすごい逸話でもあるの?なんで射手なのかも謎だ -- (名無しさん) 2018-09-24 16 15 56 統率と武力おかしいだろう、武力が曹操と同レベルに強かったのか?曹操が低すぎるのか -- (名無しさん) 2018-09-24 16 19 01 曹丕は個人的な武勇ならかなり強かったらしいよ。曹操は武勇伝はあまり聞かないからむしろ同レベルでも高評価じゃない? 特技は明らかに曹操が上だけど。統率に関しては曹丕は出負けだけど、癖のある奴らをよく統制していたのを評価されてのことかと思う。 -- (名無しさん) 2018-09-24 19 34 09 曹操は武勇伝には困らないくらいあるらしいぞ。まぁ真実は定かではないが -- (名無しさん) 2018-09-24 22 39 43 射手便利だし知力ブーストにもなる! -- (名無しさん) 2019-12-29 00 49 57 曹丕 -- (曹丕) 2020-04-21 09 59 24 山縣苑子 -- (岡村いずみ) 2020-04-21 09 59 45 井藤真吾 -- (船木沙織) 2020-04-21 10 00 04 正直特技は強力ではないが便利。どこに連れて行ってもそこそこ活躍できる -- (名無しさん) 2021-05-26 21 06 09 優秀 -- (名無しさん) 2021-09-25 19 52 08 14wikiの一言荒らしここにもいたのか・・・ -- (名無しさん) 2021-10-10 23 27 41 堀畑裕也 -- (田原啓吾) 2023-05-12 16 28 01 射手が地味に有能。意外と森が多いので -- (名無しさん) 2023-05-14 10 03 14 名前 コメント すべてのコメントを見る